メートルとポンドを間違えて、数百億円が宇宙の藻屑になった話

ようこそ、歴史の袋小路へ。
失敗学の博物館、館長のオパビニアです。

前回は、街に残された無用の長物トマソンを紹介し、建築のうっかりミスを愛でました。
今回は、もっと笑えない、しかし笑うしかないうっかりミスの話をしましょう。

舞台は、人類の英知の結晶、NASAアメリカ航空宇宙局)。
テーマは「単位」です。

皆さんは、小学校の算数のテストで単位を書き忘れて減点されたことはありませんか?
答えは100ですと書いたら、先生に100なんだ?リンゴか?ゴリラか?と怒られた経験。

理不尽に感じたかもしれませんが、あの先生は正しかったのです。
なぜなら、たった一度の単位の変換ミスが、数百億円の国家プロジェクトを一瞬でゴミクズに変えてしまうことがあるからです。

今日は、1999年に起きた宇宙開発史上もっとも初歩的で、もっとも高価な数学の失敗、マーズ・クライメイト・オービター事件のお話です。

火星への遥かなる旅路

1998年12月。
NASAは、火星の気候を調査するための探査機「マーズ・クライメイト・オービター」を打ち上げました。

開発費は約1億2500万ドル。ロケット代や運用費も含めれば、総額は3億ドル(当時のレートで約300億円以上)にも上ります。
多くの科学者たちの夢と、国民の税金を乗せて、探査機は9ヶ月かけて火星への長い旅を続けました。

そして1999年9月23日。
ついに運命の日が訪れます。探査機は火星の裏側へと回り込み、逆噴射をして周回軌道に乗る予定でした。

管制室のスタッフたちは固唾を呑んで信号を待ちます。
予定時刻が過ぎました。
……信号が来ない。

さらに待ちます。
……まだ来ない。

管制室に沈黙が広がります。
結局、探査機からの応答は二度とありませんでした。
300億円と数年の歳月が、一瞬で宇宙の迷子になったのです。

原因は超・初歩的なミス

隕石が衝突したのか?
未知の宇宙人が攻撃したのか?
複雑なプログラムのバグか?

事故調査委員会が血眼になって原因を究明しました。
そして数日後、発表された原因は、世界中の科学者をズッコケさせ、納税者を激怒させました。

原因は、単位の勘違いでした。

チームA「ポンドだろ」 vs チームB「メートルだよね」

一体どこで間違えたのでしょうか。
この探査機の運用には、2つのチームが関わっていました。

1つは、探査機を作ったロッキード・マーティン社。
もう1つは、運用を担当するNASAのジェット推進研究所(JPL)です。

問題が起きたのは、探査機の姿勢を制御するための「角運動量脱飽和(AMD)」というデータファイルでした。
ロッキード社のエンジニアは、この推力データを「ポンド重・秒」という単位で計算してNASAに送っていました。アメリカの企業ですから、彼らにとってはポンドが常識だったのです。

一方、受け取る側のNASAのチームは、この数値を「ニュートン・秒」だと思い込んで計算機に入力していました。科学の世界ではメートル法ニュートン)が世界標準だからです。

ここに、致命的なズレが生まれました。
1ポンド重は、約4.45ニュートンです。
つまり、ロッキード社が「1の力で押したよ」と伝えたつもりでも、NASA側のコンピュータは「4.45の力で押したんだな」と解釈してしまった、あるいはその逆の計算が行われたことになります。

この約4.45倍の認識のズレが、9ヶ月間の飛行中に少しずつ、しかし確実に積み重なっていきました。
「ちょっと右へ修正」
「はいよ(実際は計算より大きくズレる)」
これを繰り返した結果、探査機は運命の火星到着時、予定されていた高度150kmよりもはるかに低い、高度57kmの地点に突っ込んでしまいました。

高度57km。そこは宇宙空間ではなく、火星の大気の中です。
繊細な探査機が大気との摩擦熱に耐えられるはずもありません。
マーズ・クライメイト・オービターは、流れ星のように燃え尽きてバラバラになったか、あるいは弾き飛ばされて宇宙の彼方へ消えてしまったのです。

なぜ誰も気づかなかったのか?「より安く」の呪い

ここで最大の疑問が湧きます。
天下のNASAが、なぜ9ヶ月間もそんな単純ミスに気づかなかったのか?

実は、航行中にも「計算よりも軌道が少しズレている気がする」と気づいていたナビゲーション担当者はいました。
しかし、その警告は無視されました。
なぜか?

当時のNASAは、「Faster, Better, Cheaper(より速く、より良く、より安く)」という強力なスローガンを掲げていました。
予算を削り、開発期間を短縮し、とにかく数多くのミッションをこなすことが至上命題だったのです。

この方針の下、現場は極限まで人員を削減され、スタッフは複数の仕事を掛け持ちし、疲弊しきっていました。
本来なら行われるはずの「データの流れを最初から最後まで通して確認するテスト(エンドツーエンド試験)」も、コスト削減のために省略されていました。

「軌道がズレている?」
「いや、計算間違いだろう。再計算する時間も予算もない。このまま行け」

そんな現場の空気が、警告サインをかき消してしまったのです。
安く済ませようとした結果、300億円という一番高い授業料を払うことになった。
これが、この失敗の本当の恐ろしさです。

アメリカの単位への執着

この失敗の背景には、アメリカという国の特殊事情もあります。
世界中がメートル・キログラムに移行しているのに、アメリカだけはいまだにインチ・フィート・ポンド・マイルを使い続けています。

身長はフィート、体重はポンド、気温は華氏、ガソリンはガロン。
私たち日本人から見れば「なぜ統一しないんだ?」と首を傾げたくなりますが、これが文化というものでしょうか。

この事故の後、NASAは改めて「今後は絶対にメートル法に統一するからな!絶対だぞ!」という通達を出しました。
しかし、文化というのはそう簡単に変わるものではありません。アメリカのエンジニアたちが完全にポンドを捨てる日が来るのか、私にはまだ分かりません。

失敗学の教訓:確認をサボるな

この事件から私たちが学べる教訓はシンプルです。

1.常識は通じないと思え
自分にとっての当たり前(メートル)は、相手にとっての当たり前(ポンド)ではありません。特に異なる組織や文化の人と仕事をするときは、用語の定義から疑う必要があります。

2.無理なコストカットは破滅を招く
「より速く、より安く」を追求しすぎると、必ずどこかで「確認」がおろそかになります。安全装置を外して走るようなものです。

仕事で「この数字、単位は千円ですか?万円ですか?」と聞くのを恥ずかしがってはいけません。
聞かなかった結果、300億円をドブに捨てた人たちがいるのですから。

終わりに

もしあなたが、仕事で計算ミスをして上司に怒られたら、この話を思い出してください。
「すみません。でも、NASAよりはマシですよね?」
と言えば……まあ、余計に怒られるかもしれませんが、心は少し軽くなるはずです。

私の博物館には、燃え尽きた探査機の破片はありませんが、その教訓だけは大切に展示しておきます。

それでは、また次回の歴史の袋小路でお会いしましょう。
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