ようこそ、歴史の袋小路へ。
失敗学の博物館、館長のオパビニアです。
これまでの展示では、兵器やトマソンといった「モノ」の失敗、あるいは計算ミスという「数字」の失敗を見てきました。
しかし、今回扱うのはもっと厄介なものです。
それは、生態系(エコシステム)と人間関係の失敗です。
皆さんは、こんな想像をしたことはありませんか?
「巨大なガラスドームの中に、森や海や畑を作って、そこで自給自足できたら素敵じゃないか」と。
いつか人類が火星に移住する時のために、地球と同じ環境を人工的に作ろう。
そんなSFのような夢を、莫大な予算をかけて大真面目に実行したプロジェクトがありました。
その名はバイオスフィア2。
理論上は完璧な「人工の楽園」でした。
しかし、そこに閉じ込められた8人の男女を待っていたのは、楽園とは程遠い、飢餓と酸欠、そして憎しみが渦巻く閉鎖空間だったのです。
今日は、1991年にアメリカのアリゾナ州で始まった、このあまりにも有名な「失敗した実験」について、その裏で起きていたドロドロの人間ドラマまで含めて語りましょう。

なぜ「2」なのか?
まず、名前の由来からお話しします。
「バイオスフィア(Biosphere)」とは「生物圏」という意味です。
では、なぜ「2」なのか?
それは、私たちが今住んでいるこの地球こそが、偉大なるバイオスフィア1だからです。
この実験は、第2の地球をゼロから創造しようという、神の御業にも等しい挑戦だったのです。
巨大なガラスの箱舟
1991年9月、アリゾナ州の砂漠の真ん中に、巨大なガラス張りの建造物が完成しました。
広さは東京ドームのグラウンドほど(約1.27ヘクタール)。
外部とは完全に遮断され、空気すら漏れないよう密閉されています。
その中には、驚くべきことに7つの自然環境が再現されていました。
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熱帯雨林(アマゾンのようなジャングル)
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サバンナ(草原)
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海(サンゴ礁があり、波も起こせる)
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湿地帯(マングローブ林)
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砂漠
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農地(食料を作るための畑と牧場)
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居住区(人間が住む快適なスペース)
この中に、厳選された科学者や医師など、男女8人のクルー(バイオスフィリアンと呼ばれました)が入居しました。
ルールは簡単。
「2年間、ここから出ないこと」
「食料も水も空気も、すべて内部でリサイクルして自給自足すること」
テレビカメラが見守る中、彼らは笑顔でガラスの扉を閉め、未来への実験がスタートしました。
しかし、その笑顔はすぐに消えることになります。
誤算1:消えた酸素のミステリー
実験開始からしばらくして、不可解な現象が起き始めました。
酸素が減り始めたのです。
中の植物が光合成をして酸素を作り、動物や人間がそれを吸う。計算上、プラスマイナスゼロでバランスが保たれるはずでした。
しかし、酸素濃度は通常の21%から徐々に下がり続け、ついには14%台にまで低下しました。
これは、標高4,000メートルの高山にいるのと同じ状態です。
クルーたちは常に頭痛や倦怠感に襲われ、睡眠中に無呼吸症候群になる者も現れました。階段を登るだけで息切れし、まともに会話もできない状態。
「どこかで空気が漏れているのか?」
いいえ、逆でした。
後に判明した原因は、あまりにも皮肉なものでした。
犯人は、コンクリートでした。
施設を作る際、大量のコンクリートが使われていました。
そして、豊かな森を作るために運び込んだ「栄養たっぷりの土壌」には、想像以上に活発な微生物がいました。
この微生物が有機物を分解する際に大量の二酸化炭素(CO2)を排出。
本来なら、そのCO2を植物が吸って酸素に戻すはずですが、なんとまだ完全に乾ききっていなかったコンクリートが、化学反応でCO2を吸収してしまったのです。
植物が吸うはずのCO2がコンクリートに吸われてしまい、光合成のサイクルが崩壊。
酸素だけが一方的に消費されていく。
「建物そのものが呼吸を奪っていた」という、設計段階での致命的なミスでした。
結局、クルーの命が危険にさらされたため、外部から酸素タンク車を呼んで酸素を注入することになりました。
この瞬間、「完全な自給自足」という実験の前提は崩れ去ったのです。
誤算2:ガラス越しの「ピザ」という拷問
酸素だけでなく、食料も足りませんでした。
エルニーニョ現象による天候不順や、ガラスによる紫外線カットでガラス越しの太陽光が不足し、作物が思ったように育たなかったのです。
彼らの食事は、サツマイモ、ビーツ、そしてわずかな豆類だけ。
肉や魚はご馳走どころか、幻の存在となりました。
ここで、クルーたちにとって最大の精神的拷問が訪れます。
この施設は、実験費用を稼ぐために「観光地」として一般公開されていたのです。
ガラスの壁一枚隔てた外には、観光客たちが歩いています。
中ではクルーたちが、泥だらけになってサツマイモを掘り、空腹でガリガリに痩せ細っている。
一方、外の観光客は、コーラを片手に、熱々のピザやアイスクリームを食べているのです。
クルーの一人は後にこう語っています。
「ガラス越しに見るピザほど、この世で憎らしいものはなかった」
彼らは動物園の動物のように見世物にされながら、飢えと戦わなければなりませんでした。
実験終了時、彼らの体重は平均で約16%も減少していました。
誤算3:楽園の崩壊と、害虫の勝利
生態系のバランスも、予想もしない方向に暴走しました。
最初に死滅したのは、植物の受粉を助けてくれるハチドリやミツバチでした。
彼らがいなくなると、多くの植物が種を残せなくなります。
代わりに支配者となったのは誰か?
ゴキブリとアリです。
天敵のいない閉鎖空間で、ゴキブリと「クレイジーアント(シナイロアリ)」と呼ばれる外来種のアリが爆発的に繁殖しました。
朝起きるとベッドにゴキブリがいる。キッチンはアリの行列だらけ。
美しい熱帯雨林は、害虫たちの帝国へと変わり果てました。
さらに、砂漠エリアは湿気過多で「ただの草むら」になり、海エリアは酸性化が進んでサンゴが死滅。
人工の楽園は、またたく間に腐海へと変わっていったのです。
誤算4:人間関係の破綻と「唾吐き事件」
しかし、バイオスフィア2における最大の失敗は、生態系でも建物でもありません。
人間でした。
閉鎖空間、飢餓、酸欠、プライバシーの欠如。
これだけのストレスがかかれば、人間関係がおかしくなるのは当然です。
8人のクルーは、じきに2つの派閥に分裂しました。
「データを重視し、外部の助けを借りてでも実験を続けるべきだ」という現実派グループ。
「あくまで自給自足のルールを厳守すべきだ」という原理主義グループ。
彼らの対立は深刻化し、食事の時以外は口もきかない、目も合わせないという冷戦状態に突入しました。
あるクルーは、ストレスのあまり同僚の顔に唾を吐きかけたという証言すらあります。
さらに悪いことに、外部の運営組織の上層部でも権力争いが勃発。
中の人間も、外の人間も、互いに疑心暗鬼になり、罵り合う。
「小さな地球」を作るはずが、「小さな地獄」を作ってしまったのです。
隠蔽された「チート行為」
実は、この実験には裏話があります。
「完全密閉」と謳っていましたが、実は何度かこっそりと物資の搬入が行われていました。
実験初期、クルーの一人が作業中に指を切断する大怪我を負い、一時的に外部の病院へ搬送されました。
彼女が施設に戻る際、手荷物検査は行われませんでした。
彼女が持ち込んだダッフルバッグの中には、コンピュータ部品や、そして何より貴重な「食料」が隠されていたと言われています。
また、CO2濃度を下げるために、こっそりと「CO2除去装置(スクラバー)」という機械も使われていました。
自然の力だけで循環させるはずが、結局は機械の力に頼っていたのです。
本当の地獄は「ミッション2」だった
あまり知られていませんが、実は1回目の実験が終わった後、1994年に別のクルーによる「第2回ミッション」が行われました。
しかし、これはもっと悲惨な結末を迎えました。
運営会社の方針転換により、管理体制が軍隊のように厳しくなり、クルーたちは不満を募らせました。
そしてついに、解雇された第1期メンバーの一部が施設に侵入。
彼らは何をしたか?
なんと、ハンマーで施設のガラスドアを叩き割り、シール(封印)を破壊したのです。
「こんな実験は間違っている!空気を入れろ!」
プシューッという音と共に外気が流れ込み、気圧が変化。
第2回ミッションは、人間による「物理的な破壊工作(サボタージュ)」によって、わずか半年で強制終了しました。
自然の制御に失敗しただけでなく、人間の制御にも完全に失敗した瞬間でした。
失敗学の教訓:自然はコピーできない
この壮大な失敗から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
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「自然」は複雑すぎて再現不能
人間は、土壌の中のバクテリアの活動量ひとつさえ、正確には予測できませんでした。
「水と土と植物を入れれば地球になる」という考えがいかに傲慢だったか。バイオスフィア1(地球)のバランスがいかに奇跡的であるかを、逆説的に証明したのです。
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人間関係のリスク管理
閉鎖環境において、もっとも壊れやすいパーツは「人間の心」です。
火星移住を考えるなら、酸素ボンベの数よりも、クルーのメンタルケアや、美味しいピザの確保の方が重要かもしれません。
終わりに
現在、バイオスフィア2の巨大な施設は、アリゾナ大学の所有となり、ごく普通の研究所兼・観光施設として利用されています。
かつての「密閉実験」は行われていませんが、気候変動の研究などで地味に役立っているそうです。
もしあなたが、人間関係に疲れたり、満員電車で息苦しさを感じたりしたら、この話を思い出してください。
「少なくとも、ゴキブリだらけのガラスケースに閉じ込められて、嫌いな同僚と2年間サツマイモを食べ続け、外でピザを食う観光客を眺めるよりはマシだ」と。
そう思えば、今の生活が少しだけ、楽園(バイオスフィア1)に思えてくるはずです。
それでは、また次回の歴史の袋小路でお会いしましょう。