ようこそ、歴史の袋小路へ。
失敗学の博物館、館長のオパビニアです。
これまでの展示では、計算ミスで湖を消したり、密閉空間で人間関係が崩壊したりと、悲惨な失敗を見てきました。
しかし、世の中には「目的は大失敗だったが、結果として人類を前進させた」という、輝かしい失敗も存在します。
今回ご紹介するのは、17世紀のドイツに実在した一人の錬金術師の話です。
彼は「金(ゴールド)」を作りたくてたまらない男でした。
その欲望のあまり、彼はある狂気的な仮説にたどり着きます。
「人間の尿は黄金色だ。ということは、尿を煮詰めれば金になるんじゃないか?」
今の私たちからすれば「病院に行け」と言いたくなる発想ですが、彼は大真面目でした。
彼はあらゆる手段を使って大量の尿を集め、来る日も来る日も、悪臭にまみれてそれを煮込み続けました。
その結果、金は一粒もできませんでした。
しかしその代わりに、彼は暗闇で青白く光り輝く、悪魔的で美しい「新物質」を生み出してしまったのです。
今日は、化学の歴史の1ページ目に刻まれた、あまりにも臭くて、あまりにも偉大な失敗について語りましょう。
錬金術という名の「迷走」
時計の針を1669年に戻しましょう。場所はドイツのハンブルク。
当時はまだ「化学(Chemistry)」という学問が確立される前、「錬金術(Alchemy)」の時代でした。
錬金術師たちの夢はただ一つ。
鉛や鉄などの安い金属を、高価な「金」に変える魔法の物質、賢者の石を作り出すこと。
この夢に取り憑かれた男の一人が、今回の主人公、ヘニング・ブラントです。
彼の経歴は謎に包まれていますが、一説にはガラス職人や元兵士だったとも言われています。
確かなことは、彼がマルガレータという裕福な未亡人と結婚し、その妻の財産を惜しみなくつぎ込んで、自宅に実験室を作り上げたということです。
彼はあらゆる実験を試しました。
しかし、どれだけ怪しい薬品を混ぜても、金は生まれません。
焦ったブラントは、起死回生のアイデアをひねり出しました。
自然界のどこかに、賢者の石の材料が隠されているはずだ。
それは何だ?
彼は考えました。
「金は黄色い。そして人体から出る液体……そう、尿(オシッコ)も黄色い!」
「人間はパンや水を食べて生きているのに、なぜか黄金色の液体を排出する。これは、体内で何らかの錬成が行われ、微量の金、あるいは金の元となる『生命の精気』が含まれているからに違いない!」
現代なら笑い話ですが、当時は体液と宇宙の神秘を結びつける思想があった時代です。
こうして、歴史に残る奇行が始まりました。
地下室の悪夢
ブラントは行動を開始しました。
実験には大量の「材料」が必要です。
彼が具体的にどうやって尿を集めたのか、正確な記録はありません。しかし、科学史家の試算によれば、彼が後に抽出したリンの量から逆算すると、少なくとも数千リットルもの尿が必要だったと推測されています。
有名な俗説では、彼は「ビールを常飲している兵士の尿が良い(色が濃いから)」と信じ、酒場や兵舎から尿を買い集めたとも言われています。
いずれにせよ、彼の家の地下室には、お風呂の浴槽にして何十杯分もの尿が運び込まれたのです。
しかも、彼のレシピは強烈でした。
「新鮮な尿ではダメだ。しばらく放置して腐敗させるべし」
想像してみてください。
地下室に並ぶ、腐敗して強烈なアンモニア臭を放つ大量の尿。
そしてブラントは、それをガラス器具やレトルト(蒸留器)に入れて、グツグツと煮込み始めたのです。
近隣に漂う悪臭は想像を絶するものだったでしょう。
それでも彼は止まりません。
「この釜の底に、黄金が眠っているんだ!」
彼はマスクをして、涙目で尿を煮詰め続けました。
煮詰めて、蒸留して、焼いて
彼の実験手順は、当時の錬金術としては非常に複雑かつ徹底したものでした。
後世に伝わる製法の一例によれば、以下のような工程だったとされます。
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腐らせた尿を、水分が飛んでシロップ状になるまで煮詰める。
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そのドロドロの液体をさらに強熱し、赤黒い油のような物質を抽出する。
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残った黒い炭素質のカスと、抽出した油を混ぜ合わせ、レトルトに入れて密閉する。
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それを高温の炉に入れて、徹底的に加熱・蒸留する。
来る日も来る日も、尿を煮ては焼く作業。
もはや執念です。
そしてある夜、ついにその時は訪れました。
蒸留器の管から、ポタリ、ポタリと、液体が落ちてきました。
「出た! 金だ!」
ブラントは震える手でそれを受け止めました。
しかし、冷えて固まったその物質は、金ではありませんでした。
それは、白くて、ロウソクのロウのような、少しねっとりした固体でした。
「失敗か……」
落胆したブラント。しかし、ふと部屋が暗くなった瞬間、彼は息を呑みました。
その白い物質は、暗闇の中で青白く、怪しく光り輝いていたのです。
「冷たい炎」の発見
それは金ではありませんでした。
しかし、人類がそれまで見たこともない、不思議な物質でした。
触っても熱くないのに、光っている。
しかし空気に触れさせると、自然に発火して激しく燃え上がる。
水の中に入れておかないと保存できない、危険で神秘的な石。
ブラントは震えました。
「これは金ではないが、もっと凄いものかもしれない」
彼はこの物質を、ギリシャ語で「光を運ぶもの(明けの明星)」を意味する言葉から、フォスフォロス(Phosphorus)と名付けました。
日本語で言うリン(燐)です。
金、銀、鉄、銅……。
人類は太古の昔からいくつかの元素を知っていましたが、それらは「いつ、誰が見つけたか」分かりません。
しかし、このリンは違います。
これは人類の歴史上初めて、「誰が発見したか」という記録が明確に残っている最初の元素となったのです。
ブラントの狂気的な実験は、化学の歴史に最初の「名前」を刻むことになりました。
黄金よりも価値ある失敗
ブラントは当初、この発見を秘密にしました。
「これを使えば、今度こそ金を錬成できるかもしれない」と考えたからです。
しかし、結局どうやっても金にはなりませんでした。
研究資金が尽きた彼は、やがてこの「光る石」を見世物として王侯貴族に見せたり、製法の一部を他の科学者に売ったりして生活費を稼ぐようになりました。
皮肉なことに、彼は金を作ることはできませんでしたが、尿の研究によってお金を得ることには成功したのです。
その後、この製法はロバート・ボイル(「ボイルの法則」で有名な化学の父)などの手に渡り、科学的に研究され、やがて「元素」としての地位を確立していきます。
そして数百年後。
リンは、農業に不可欠な肥料となり、世界中の食糧生産を支えることになりました。
また、マッチの材料となり、人類に手軽な火をもたらしました。
さらに生物学が発展すると、リンは私たちのDNAの骨組みを構成し、エネルギー代謝(ATP)に不可欠な、生命の根源的な元素であることが判明しました。
ブラントが求めた「金」などよりも、はるかに人類にとって価値のある宝物を、彼は汚い尿の山から見つけ出していたのです。
この物語は、科学におけるセレンディピティ(偶然の幸運)の好例として語られます。
しかし、ただの偶然ではありません。
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狂気的なまでの行動力
「尿を煮る」という常軌を逸したアイデアでも、それを実行しきる行動力がなければ、発見はありませんでした。
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観察眼
目的(金)とは違う結果が出たとき、「失敗だ」と捨てずに、「光っているぞ」と興味を持ったこと。これが錬金術を科学へと変えました。
もし彼が、「臭いからやめよう」と途中で諦めていたら、リンの発見はもっと遅れていたでしょう。
偉大な発見は、得てして「常識外れの無駄な努力」の先に落ちているものです。
終わりに
現在、リンは鉱石(リン鉱石)から採取されるため、もう誰も尿を煮詰める必要はありません。ご安心ください。
しかし、もしあなたが何かに失敗して、「私の努力はすべて無駄だった」と落ち込んでいるなら、ブラントのことを思い出してください。
彼は金を作ろうとして大失敗しましたが、その代わりに化学の歴史を照らす「光」を見つけました。
あなたの失敗した残骸の中にも、よく見れば「暗闇で光る何か」が混ざっているかもしれません。
ただし、それが尿のように臭う場合は、換気だけは忘れないようにしてくださいね。
それでは、また次回の歴史の袋小路でお会いしましょう。