ようこそ、歴史の袋小路へ。失敗学の博物館、館長のオパビニアです。
前回は、機関銃を持って巨大鳥エミューと戦い、見事に敗北したオーストラリア軍の話をしました。「空を飛べない鳥」に地上の戦いで負けたわけですが、今回はその逆。「空を埋め尽くして勝利しようとした」人々の話です。
皆さんは信じられますか?
ある都市が「イメージアップ」のために、善意で、チャリティーで、150万個もの風船を一斉に飛ばし、その結果、街を機能不全に陥らせ、人命救助まで妨害してしまったという事実を。
それはまるで、部屋を飾ろうとして大量の花びらを撒いたら、それが全て濡れた雑巾となって降り注いできたような、カラフルで悲惨な悪夢でした。
汚名返上のための「空爆」
舞台は1986年9月、アメリカ・オハイオ州クリーブランド。
当時のクリーブランドは、長い不況と環境汚染に苦しみ、「湖畔の間違い(Mistake on the Lake)」などという不名誉なあだ名で呼ばれていました。
市民のプライドは傷つき、誰もが「何かデカいことをやって、見返してやりたい」と思っていました。
そこで立ち上がったのが、地元の慈善団体「United Way(ユナイテッド・ウェイ)」です。
彼らは募金活動のキャンペーンとして、前代未聞のイベントを企画しました。
「世界記録を作ろう。ディズニーランドが持っている風船一斉リリースの記録を破るんだ!」
彼らの動機は純粋な善意と郷土愛でした。
目標は200万個。
パブリック・スクエア(広場)には、巨大なビルほどのサイズの網が設置され、その下に2,500人ものボランティアが集結しました。彼らは指に豆を作りながら、ヘリウムガスを詰めた風船を一つ、また一つと結んでいきました。
「これさえ成功すれば、クリーブランドは『間違い』ではなく『奇跡の街』になる!」
彼らはそう信じて、色とりどりのゴム風船で広場を埋め尽くしていきました。その光景は、まるで巨大な怪物の卵が孵化を待っているようでした。
空から降るカラフルな悪夢
9月27日、イベント当日。
空には不穏な雨雲が近づいていました。気象予報は「午後は雨」。
主催者は決断を迫られました。「中止にするか? いや、ここまで準備したんだ。雨が降る前に飛ばしてしまえ!」
予定を早め、午後1時50分。号令と共に巨大な網が開かれました。
「リリース!」
その瞬間、約150万個の風船が一斉に解き放たれました。
それは息を呑むほど美しい光景でした。色とりどりの粒子がターミナル・タワーを包み込み、灰色の空を極彩色に染め上げました。観衆10万人が歓声を上げ、テレビカメラがその「勝利の瞬間」を映し出しました。
しかし、物理法則は残酷です。
上昇した風船たちは、上空で冷たい雨と寒冷前線にぶつかりました。
通常なら拡散して遠くへ飛んでいくはずのヘリウム風船が、冷やされて浮力を失い、さらに雨の重みを受けて、そのまま地上へ戻ってきたのです。
「あれ? なんか戻ってきてないか?」
歓声はすぐに悲鳴に変わりました。
150万個の風船が、まるで意思を持ったスライムのように、街全体を覆い尽くし始めました。
道路、ビル、川、そして湖。すべてが風船だらけになりました。
高速道路を走っていたドライバーたちは、突然目の前が風船で埋め尽くされ、パニックに陥りました。次々とブレーキランプが点灯し、玉突き事故が発生します。
「前が見えない! なんだこれは!」
美しいパレードは、一瞬にして「カラフルな視界不良地獄」へと変貌したのです。
量という名の暴力
なぜ、楽しいイベントが災害になったのでしょうか?
原因は、「自然への無知」と「量の暴力」です。
主催者たちは「風船は空高く舞い上がり、どこか遠くで割れて消える」と信じていました。
しかし、寒冷前線の下降気流は、風船を街中に叩きつけました。
さらに深刻だったのは、その「場所」です。クリーブランドはエリー湖に面しています。
風船の多くは湖に着水しました。
ここで、最も悲劇的な事態が起きていました。
実は前日、2人の漁師が湖で行方不明になり、沿岸警備隊が必死の捜索を行っていたのです。
しかし、湖面には数えきれないほどの風船がプカプカと浮いています。
ヘリコプターのパイロットは絶望しました。
「ダメだ……。風船が人の頭に見えて、本物の遭難者がどこにいるか全く分からない!」
オレンジ色の救命胴衣も、人の頭も、すべてが色とりどりの風船の海に埋もれてしまいました。
沿岸警備隊は捜索を断念せざるを得ませんでした。
後日、2人の漁師は遺体となって発見されました。彼らの妻は後に主催者を訴え、賠償金を手にすることになります。
他にも、郊外の牧場では、空から降ってくる正体不明の物体に恐怖した高級なアラビア馬が暴れ回り、大怪我を負いました。
地元の空港(バーク・レイクフロント空港)では、滑走路が風船で埋まり、閉鎖されました。ブルドーザーで風船をかき分ける光景は、まさにコントのようでしたが、空港職員にとっては悪夢以外の何物でもありませんでした。
ギネス記録と引き換えの代償
結局、このイベントはギネスブックに載りました。「史上最大の風船同時リリース」として。
しかし、その記録は「環境破壊の象徴」として語られることになり、ギネス社もその後、環境への配慮からこのカテゴリの記録認定を廃止しました。
主催したUnited Wayとクリーブランド市には、数百万ドル規模の訴訟が次々と起こされました。
募金で集めたお金の多くが、弁護士費用と賠償金、そして途方もない量のゴミ掃除代に消えたのです。
風船の残骸は、数週間、数ヶ月にわたってエリー湖の岸辺に打ち上げられ続け、遠くカナダの海岸まで汚染しました。
「湖畔の間違い」を返上しようとしたイベントは、皮肉にも「湖畔の巨大ゴミ散乱事件」として歴史に刻まれてしまったのです。
失敗学の教訓
さて、この空を埋め尽くす失敗から、私たちは何を学べるでしょうか。
-
「善意」は免罪符にならない
「チャリティーだから」「みんなを喜ばせたいから」という美しい動機があっても、物理法則や自然環境は忖度してくれません。ビジネスやプロジェクトでも、「想い」が先行して、リスク評価(特に最悪のシナリオ)が疎かになることはよくあります。熱意がある時こそ、冷徹な計算が必要です。
-
スケールメリットの逆転(量の毒)
風船1個ならメルヘンですが、150万個なら兵器になります。
物事は「量」が増えると、単なる足し算ではなく、まったく別の「質」に変化します(これを「量質転化」と言います)。プロジェクトを拡大する際は、規模がもたらす副作用が指数関数的に増えることを忘れてはいけません。
-
「後片付け」までがプロジェクト
彼らは「飛ばすこと」には全力を注ぎましたが、「落ちた後どうするか」は「風任せ」でした。
製品を世に出す時も同じです。売った後のサポート、廃棄時の環境負荷、そこまで設計していなければ、それは未完成品です。空に飛ばしたものは、必ずどこかに落ちてくるのです。
終わりに
1986年のあの日、クリーブランドの空は確かに一瞬だけ、世界で一番美しかったそうです。
しかし、その代償はあまりにも高くつきました。
もし皆さんが、仕事で「ド派手なキャンペーンを打ちたい!」と思いついたら、一度立ち止まって考えてみてください。
「その後始末は、誰がするんだ?」と。
そうすれば、少なくとも数億円の賠償金を払う事態は避けられるかもしれません。
それでは、また次回の歴史の袋小路でお会いしましょう。
風船のようにどこかへ飛んでいってしまわないよう、読者登録もお願いします。